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      長篠・設楽原の合戦時の勢力図。この合戦で敗退した武田勢は、やがて衰退し 
      てその領地の多くが、徳川家康のものとなっていった。 
      豊臣政権下、家康が大きな影響力を持ち得たのは、このことに因るところが大き 
      い。…【地図へ】 
        
      長篠・設楽原の合戦は、武田勝頼の長篠城攻めで口火を切った。長篠城の奥平 
      貞昌は、1万5千の武田勢に対しわずか5百の城兵で戦った。 
      ここで貞昌は10日間を耐え織田・徳川の援軍を待った。 
      写真は、密かに城を抜け出し援軍を頼み、援軍の進軍を城の仲間に伝えるため 
      に、再び城内へと潜入しようとして武田勢に捕まり磔刑(たくけい)になった鳥居 
      強右衛門(とりいすねうえもん)の図(写し)。その武勇に感銘した武田勢によって 
      描きしるされた。 
        
      鳥居強右衛門磔死の碑が、川の対岸にあります。(長篠城址から臨む。) 
        
      設楽原にある復元された馬防柵から設楽原北方を臨む。 
      長篠城から数キロ離れた、ここ設楽原で3千の織田の鉄砲隊と最強と謳われた 
      武田の騎馬軍団が戦った。死者数は、武田側1万・織田側6千。…【地図へ】 
        
      信玄塚。長篠・設楽原の合戦の死者1万6千を弔った塚。土地の百姓たちが、泥 
      田に埋まった死者を悼んで作ったもの。 
      合戦時、既に信玄は死んでいたが、亡き信玄の人徳からこう名付けられたという。 
      このあたりの地域は、戦国時代には今川・武田・徳川の統治をその時々によって 
      うけた。 
      土地の百姓にとっては、武士の領土争いとは別に、自分たちの生活を守ってその 
      時の領主に従うしかなかった。 
      信玄塚という名には、そんな百姓たちの本心が見え隠れする。 
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